「弦月会展」の会場の変遷について


 戦前の弦月会部員は、部全体で活動するよりは、各々が有名画家に“弟子入り”して、半ばプロフェッショナル的な活動をしており、『東の慶應・西の関学』と並び称されるほど、学生美術界における弦月会のレベルは非常に高いものがあった。弦月会史によると、第二次大戦による混乱の時代を経て、昭和22年(1947年)に梅田の阪急百貨店で復活となる弦月会展を開催、その2年後の昭和24年(1949年)から大阪市立美術館が会場となった。

 OBの天王寺谷卓三氏(昭和17年卒)が大阪市立美術館の要職を務めるなど、弦月会と美術館のつながりは深いものがあり、40才代半ば以上のOB諸氏にとって『弦月会展イコール大阪市立美術館』というイメージが今なお強く残っている。毎年11月頃という絶好の展覧会シーズンに弦月会展を大阪市立美術館で開催するのは、今から考えれば学生団体にとって破格の厚遇と言えるが、当時としては“当たり前の年中行事”という感覚であった。

 昭和30年代の記録からは、当時の弦月会の活動が非常に盛り上がり且つレベルの高いものであったことが伺える。それが昭和40年代半ば以降は学生運動の影響によるものであろうか、活動記録がほとんど残っていないが、当時の社会情勢や時代背景を考えると、美術活動への熱は以前ほど高くなかったのかもしれない。美術専門の学校と違って一般大学の美術部であり、ほとんどの部員は大学入学後に初めて絵筆をとる者ばかりなので、展示作品のレベルが年によってバラつきがあるのは仕方のないことであり、部員数が少なく作品数が不足して割り当てられた壁面を埋めきれない年などもあり、徐々に“伝統だけはあるが、あまりレベルの高くない学生クラブ”という目で、弦月会展が大阪市立美術館側から疎ましく見られるようになっていったものと推測される。

 38年もの長きにわたって有難く使用させていただいた大阪市立美術館であったが、ついに昭和62年(1987年)、第64回展の開催を控えた時期に、『天王寺博覧会開催に伴う天王寺公園および市立美術館の整備工事』との理由により、美術館本館が今後使用できなくなる旨が突然通達されてきた。弦月会などの学生団体や小さなアマチュア美術団体には、代替会場として阿倍野のテナントビル「あべのベルタ」の1フロアが、『大阪市立美術館・阿倍野展覧会場』の名称で割り当てられた。美術館側への不信感や不満を覚えながら開催した第64回弦月会展であったが、フタを開けると一般客の来場は皆無、『展覧会場』とは名ばかりの、殺風景でお粗末な空間であった。美術館側のあまりにも“お役所的な”やり方に憤慨した当時の執行部員たちは、議論と熟考を重ねた結果、その年限りで大阪市立美術館から撤退することを決定した。

 大阪市立美術館が開館50周年事業として大改修工事を行ない、新たに「地下展覧会室」をオープンしたのが平成4年(1992年)であり、結果的に見れば、5年間ほど「阿倍野展覧会場」で頑張り続けていれば、その後「地下展覧会室」に入る“権利”を得ることができたのかもしれない。大阪市立美術館との長い関係を断ち切ってしまい、「何故そんな愚行を犯したのか?」と思われる方々も多いかもしれないが、当時の執行部の撤退の決断が決して間違っていたとも思えない。当時、美術館側から数年後の展覧会場新設の説明は一切無く、やはり体のいい『アマチュア団体・学生団体の追い出し』であったのではないだろうか。あのまま大阪市立美術館に留まっていても、それが弦月会にとって幸福な結果だったかどうかはわからない。

 ちなみに、弦月会展のよきライバルであった大阪市立大学の「青桃会展」、関西大学の「白鷲会展」などは、「阿倍野」で頑張り続けた結果、現在も大阪市立美術館・地下展覧会室で開催されている。

 大阪市立美術館に代わって弦月会展の会場となったのが「西宮市立市民ギャラリー」(西宮市川添町・酒蔵通り沿い)である。当時オープン間もない『西宮市教育文化センター』内にあり、市立中央図書館や郷土資料館などを併設した西宮の文化発信拠点の中心地であった。西宮市の芸術文化に対する支援姿勢は非常に高いものがあり、新しくてきれいな大展示室に魅力を感じ、翌昭和63年(1988年)の第65回展から弦月会展の会場として使用することになった。天王寺に比べると、作品の搬入出や会場当番も近くて便利であり、弦月会展以外にも多くのグループ展を開催した。

広く『全関』の名称で知られた「全関西学生美術連盟」の活動が低迷し、代わって弦月会主導で、阪神間6大学の美術部に声を掛け「神戸学生制作会」を立ち上げたのがちょうどこの時期で、第1回展から西宮市立市民ギャラリーで開催した。同所で毎年夏に開催される『西宮市展』は、弦月会部員にとっては自分の作品レベルを測ることのできる最も身近な公募展であり、毎年参加者も多い。

 その後2003年までの16年間、弦月会展を西宮市立市民ギャラリーで開催したが、徐々にマイナス面が目立つようになった。来場者(特にOB)にとって場所が不便なこと、交通の便があまりよくない割には来場者用の駐車場を備えていないこと、閉館時間が17時と早いこと、阪神淡路大震災の影響による西宮市の文化予算削減で設備面のメンテナンスが全くなされず急激に老朽化が目立ったこと、などの理由により、また来場者数が極端に落ち込んだこともあり(最終的に1週間で200名を切った)、このまま同会場で展覧会を続けても発展性が見込めないと判断し、心機一転をはかるべく会場を変更することになった。

 そして「兵庫県立美術館・原田の森ギャラリー」である。以前は『兵庫県立近代美術館』の名称で知られた、村野藤吾設計の名建築(1970年開館)であるが、2002年4月、HAT神戸に「兵庫県立美術館」がオープンしたことにより美術館機能を廃止し、同年10月に美術館分室の貸ギャラリーとして再出発することになった。

 弦月会創立90周年と、学院創立者であるW.Rランバス生誕150周年を記念した、弦月会展とOB展を同時開催した2004年に使用を始めたが、村野建築だけあって風格のあるつくりの建物、比較的リーズナブルな料金設定、阪急・阪神・JRどの路線の最寄り駅からも徒歩圏内であることなどの条件面は、前会場の西宮市立市民ギャラリーを上回る。また原田の森は言わずと知れた関西学院の発祥の地であり、弦月会にとっても歴史的なつながりのある場所である。

 プロアマ問わずあらゆる美術団体にとって、会場問題は避けて通ることができない。出来ることなら長期間安定した会場を確保したいが、外的あるいは内的要因により移転を検討しなければならないときもある。展覧会場のロケーションについても、各人によって判断基準が異なるところであり、どこが一番優れていると決めることはできない。神戸・阪神間在住者は「原田の森ギャラリー」や「西宮市立北口ギャラリー」が、大阪南部や奈良方面在住者なら「大阪市立美術館」が、京都方面在住者なら「京都市美術館」が、それぞれベストの場所であろう。また、OBの思うベストと現役部員が思うベストが一致しているとも限らない。 

弦月会展の会期は、以前は10月下旬〜11月中旬であったが、近年は11月上旬の学園祭『新月祭』開催時に学内展を行なっているため、重複を避けるため12月中旬の開催となっている。

 

文責:佐々